信号
交通量も少なく誰も見ていないとき横断歩道の信号機に従うだろうか?
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交通量も少なく誰も見ていないとき横断歩道の信号機に従うだろうか?: 極東ブログ
僕は、小学生の四年生とかそれくらいまで信号無視ができなかった。
通っていた小学校と自宅に間にはバス通りを渡るための信号が一つだけあった。その通りは、朝晩のラッシュ時にはとても混雑していたはずだけれど、特に下校時には車が通らない時間というのが頻繁に確かにあったように思う。
同級生と連れ立って下校し、車が通らない時間に当たったとき、他の同級生は当然というか信号を無視して渡っていくのだけれど、僕はどうしても無視することができなかった。細かなやり取りは忘れてしまったけれど、同級生たちは渡った先で結局僕を待ったか、少しずつゆっくりと歩き始めた同級生たちに僕がその後に駆けて追いついたか、したように思う。
僕は母に信号を無視することができないんだみたいなことを報告してみた。すると意外にも、車が通ってないなら渡ってもいいんじゃない、みたいな答えが返ってきた。車の往来の状況を当然知っているからそう言ったのか、何か私の悲壮な雰囲気をかばうようにそう言ったのか、同級生たちとの関係性を慮ったのか、母の心中はわからないけれど、全面か一部容認か、何れにしても信号の無視を肯定する答えが返ってきた確かな記憶がある。そうして僕はそれ以来、赤信号を渡ることに特に抵抗がなくなった。
少なくとも僕は「誰かに見られているから」そうしたのではなかったと思う。与えられて認知した規則を、自分なりの規則として定めて、その自分なりの規則が信号を守らないことを許さなかった。敢えて言うと、自分の中の自分に見られていたから。
ただ、その規則は、自分では壊せなくても、他者もとい母親にはあっさり壊されるようなものだったのだけれど。
今は、小さな子供の悪い見本にならないように、きちんと信号を守っています。
広島と大阪の間に
年末は奥さんの中高の部活の忘年会に出るために広島に戻り、年始は私の兄弟の新年会に出るために大阪に戻るというのが、年末年始の行動軸なのだ。
いろんな職業に就いていてお休みの日を合わせるのも一苦労な奥さんの同級生は、12月30日を例年その日と決めて、家族がいれば伴って皆で集まるのだ。
私の兄弟の新年会の方は、兄弟全員が社会に出ることになって何年か経った後に、弟が発起して年始に集まることになったのだった。こちらも周辺の家族を適当に伴いつつ、調理師の弟が河豚をさばくのを恒例として。
さて、せっかくもらった長期の休みを帰省で埋めてしまうなんて、そう言えば何て愚かしいことなんだと思いつつそういうことになってしまっているので、でも広島に行って大阪に行ってそのまま帰るだけだと何だかもったいないので、その広島と大阪の間にどこか旅行に行くことにしているのだ。
ここ5,6年でいうと、
- 【2013-2014年】は、広島から船で愛媛県の松山に渡り、道後温泉に逗留しつつ松山を観光した。連泊した宿のご飯が最高で、鯛づくしのご飯が美味しかったし瀬戸内の魚づくしのご飯も美味しかった。食事の回数と同じくらい温泉にも入りとても緩んだ。
- 【2011-2012年】は、福岡に行って福岡の美味しいものをたくさん食べて、お櫛田さんにお参りしたり。
- 【2010-2011年】は、和歌山の白浜に行ってクエ鍋食べて年を越しつつ、アドベンチャーワールドで娘にパンダを見せたりしたり。
- 【2008-2009年】は、岡山の倉敷に行って、倉敷チボリ公園の最後を看取りつつ、倉敷美観地区をきちんと観てまわったり。
という広島と大阪の間のお楽しみ。広島と大阪の間なのでどうしても行くところは限られてしまうのだけれど。
来年はどこに行こうかしら。
どこか広島と大阪の間のいいところはありませんか。
頼もしいと思ったこととやっぱり子供だったことと
娘がまだ4歳の少し前のある夜のこと。
いつものように娘を保育園にお迎えに行き、娘と家に戻ったのだけれど、その晩の私はどうしたことか疲労困憊で。いつもなら1時間ほど何かしら娘と遊んだ(娘を遊ばせた)後、添い寝するか娘のベッドのそばで仕事するかして、娘が寝入るまで付き合うのだけれど、この日は荷物を降ろして座り込んだらもう目を開けてられない状態で。
娘に「ゴメン、今日は何かアカン。シンドイ。寝させてもろても構へんか」と訊くと、「うん、いいよ」と言ってくれた。その後の私はもうほとんど着の身着のままで自分のベッドに行って横になって、すぐにまどろみ始めた。娘はその様子を見に来て私の姿を認めると、そのまま自分の場所に戻って行った。私はその戻る娘の背中をうっすら見てそのまま本当に寝てしまった。
何時間か寝て、娘のベッドに様子を見に行くと、ちゃんと寝支度をして行儀よく寝入っている娘の姿がそこにあって、もうすっかり大人だなあと思ったことだった。そしてうっすら記憶にある、戻る娘の背中がとてもたくましいなと思ったことだった。
その後しばらくして娘は5歳になり、何と運悪くアレルギー性紫斑病という原因不明の一過性の病気にかかり、1ヶ月ほど入院する羽目になった。
入院した病院は基本的に付き添いを認めていないものの子供は付き添いをしてもよいということになっていた。ただし我々は始めから長期の入院になることがわかっていたので付き添いを選ばず、朝と夜のお見舞い時間以外、娘は親と離れて過ごすことになった。
入院することになったこのときの娘は、少し前のたくましい背中を持った娘とは違い、面会時間の終わりがきて帰る段になると、泣くわ喚くわの大騒ぎだった。
もちろん状況は全く異なるんだけれど、すっかり頼もしくなったと思った娘は、やっぱりまだまだ子供なんだと思ったことだった。
そんな娘は年末にかからずに無事に退院でき、保育園でのクリスマス会も楽しめたし、今も年末年始の帰省兼旅行を精一杯楽しんでる。
さあ、保育園も来年の4月には最後の学年になり、後はもう、すぐに小学生だ。
背中が痛い
今年の夏休みは、
外せない海に加え、温泉を少々と、遊園地を最後に据えて、しっかりと遊びました。
伊東オレンジビーチ
南方で海沿いの温かいところには、いつもちゃんと立派な椰子の木があって、それが温暖な気候をわかりやすく特徴を表していて、ああいつもと違う場所に来たと思わせてくれて、僕はそれをとても好ましいといつも思うのです。
伊豆は下田まで行けばより美しい海が楽しめるのはわかっていたものの、海遊びの後の予定のことを考えるとあまり南に下りすぎるのは余裕なく、伊東どまりにしました。
選んだ伊東オレンジビーチは伊東駅から歩いていけるところにあってアクセスよく、伊東駅自体も東京駅から一本で行けるので使い勝手が大変よいのです。(まだ今のところ、娘の昼寝の確保が行程における重要なポイントです)
この日は、それを知らずに行ったのですが、海岸で花火大会があったようで、防波堤のテトラポットのところで花火の準備が行われていたり、試し打ちがあったり、大きくて立派な船がきっと花火見物のために直ぐの沖合に停泊していたりと、少しいつもと違う雰囲気を感じました。
海は潜ると魚が泳いでいるのが見える程度には快適な水質で、燦々と照りつける太陽の下、大変気持ちよく泳ぐことができました。娘ももうバタ足で進んだりと海の大きさに及び腰だった2,3年前が随分と昔のことのようで、成長を感じて大変嬉しく思いました。
伊豆長岡温泉
夕方までひとしきり泳いだ後、三島から伊豆箱根鉄道駿豆線を乗り継いで伊豆長岡駅で降り、伊豆長岡温泉の宿に一晩逗留しました。
なかなかいい宿にあたったようで、お風呂も気持ちよく、地で旬のものがふんだんに使われていたご飯も大変美味しくて、嬉しく大変満足しました。
富士急ハイランド
翌日は昼までには三島に戻り、三島からバスを乗り継いで富士急ハイランドに向かいました。この後は富士急ハイランドのそばで一泊しての、二日間での遊園地遊びの行程としていたのです。
富士急ハイランドには実は来るのは初めてで。本当はもっと前に絶叫マシンを楽しむために来たかったのだけれど、来そびれたまま娘ができて旅の候補から外れてしまって。でももうすぐ5歳の娘は身長が110cmを超えて少し乗れるものも増えてきただろうし、何より「リサとガスパールタウン」というものがオープンしたらしいことを聞きつけて子供が喜ぶだろうとぜひにと来ることにしたのです。
おかげで娘は「リサとガスパールタウン」も楽しんでいたようだし、「トーマスタウン」でも同じ遊具に繰り返し乗るくらい楽しんでいたし、何よりでした。大人は互いの合間を縫って、一つ二つ目玉の絶叫マシンに乗れた程度だったけれどそこはその程度でいいやと最初から思っていたのでそれだけで満足でした。
ところでその一つ二つ乗ったものはうわさ通りよくできていて、もうこれでもかと落としたり振りまわしたりで、ちょっとがちがちに身体を固定しすぎじゃないかとも思ったものの、ものすごく楽しかった。参りました参りました。
と、そんな夏休みでした。
実は、夏休みをこれではまだ1日しか行使していないので、9月の後半でもう少し休みたいなと考えていたりします。
家のNASを交換した
もともと家にあったNASは2007年の8月に買ったので、6年使った後での交換だ。
その家にあったNASは、4個(250GB/個)のハードディスクが載っていて、RAID 5で構成していたのだけれど、その内の1個のディスクに障害が発生してしまって。ディスクを交換してもよかったのだけれど、こいつはどうにもそもそもポンコツで。
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ディスクの障害自体はこれで2回めで、だから耐久性に問題があったとは思わないのだけれど、例えば長期の旅行に行くからとひとたび電源を落とし、帰ってきた後に電源を入れると、必ずカーネルのロードに失敗したとかで起動できず、何度も電源のOn/Offを繰り返してようやくデグレードモードで起動したところでファームウェアを入れなおして復旧させなければならないとか。その2回のディスク障害は多分TV側から突っついた後のことでどうも相性がうまくないかもしれないとか。手が掛かり過ぎでもうおさらばしたかったのだ。
この機会にオンラインのストレージに移行しようかと悩んだものの、子供用のTV番組の録画先がまだ当座必要で。TV番組の録画程度ならUSBのハードディスクにでも放り込むようにすればいいかと思ったものの、オンラインのストレージはもう少し様子を見た方が良さそうに思えたこともあり、結局もう一度NASを使うことにした。
ポンコツのメーカーの品物は買う気になれなかったので、別のメーカーの品を購入した。2個(2TB/個)のハードディスクを、RAID 1で構成することにして。(これまでの実使用領域4分の3(RAID 5)から、実使用領域半分(RAID 1)というのは気持ち的に大きく引っかかるところがあるのだが。今や数TB程度のNASにRAID 5で構成するものなんてあまりないのだ。そう、安くなっているんだ。大人になるんだ。)
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シコシコとデータを移行しているのだけれど、新しいNASはサイズもコンパクトだし音も随分と静かで。
良い買い物だったと満足しております。あとまた何年か、どうぞよしなに。
心理学が大事だということ
物心ついたとき、それは高校受験の受験勉強を始めた中学生の頃、自分が大学に進んだとして最初に追究したいと思った学問は心理学だった。
私は強い父権的権威の元で、典型的に親の顔色を伺うタイプの子どもで、ただそのお陰で人をじっと洞察する割合が多分比較的多かったんじゃないかと思う。その所為か、理に合わない、人の表層的な感情の表出を不思議に思うことが多かったし、つまるところどういう内面の心理的な力が作用して、こういう表面の行動を引き起こすことになったのかということを考えることが多かった。それが昂じて、心理学を追究したいと考えたのだと思う。
そんな好奇心の終わりはあっけなかった。心理学に興味があることを、当時の塾講師だった確か6歳くらい年上だった大学生に打ち明けてみたところ、「心理学なんてねずみ(マウス)をいじくりまわすばっかりで、わかるのは結局ねずみのことだけやねんで。人の深層のことなんて全然追究せえへんねんで」みたいなことを言われ、急速に自分の好奇心が恥ずかしいもののように思えてしまって、その後にもうその気持ちを表に出すことはなかった。結局その程度のものだったということだけれど。
その後、結局その程度のものだった心理学のことは横に置いて、最終的に私は大学において経済学を専攻することになった。経世済民のその学問は、特にマクロ経済の言論に手をつけた一番最初で、結局は個々の心理の集積を数理的に希求し分析するものであることに気が付いた。ただ、心理を集積するものであるにも拘わらず、数理的に分析するがためにその心理に前提を置き単純化していることが私には受け入れられず、私は急速に興味を失った。もちろん経済学は、人や組織の行動を研究するのが本質の一つで、私は単に基礎の導入部分で不信的な先入観を勝手に持っただけだったのだけれど。閑話休題、そうやって専攻した経済学の本質にあるのは、結局は人の心理だった。
会社に入って、チームやプロジェクトを持ち、そのチームやプロジェクトのアウトプットを最大化することに腐心するようになった。そして、マネジメント手法やメソドロジを学ぶ度に、いつも目の前にあるのは、人の心理への有効な働きかけをどうするかということだった。
他の一般的な例えだと、統計学に少し前からスポットがあたっているように思うけれど、統計とは結局はある意図を持って収集されたデータをある意図を持って加工し読み取る行為であり、統計データには歪みやノイズや偏りが存在する。よって統計データはファクトではなく、ある心理が導いたもので、その活用には高いリテラシ(心理が生む偏りや限界を踏まえマネジメントすること)が必要なように思う。
人が介在するすべてのものに心理が作用するのはそれはそうで当たり前のことなのだが、ということで僕はだからこそ、高等教育の一番最初に心理学を含ませるべきなのではないかと思う。具体的にはその中でも社会心理学と認知心理学を挙げたい。これらを基礎の素養として、他の学問に進み、また、実社会活動に活かしていくのがいいのではないかと思った次第である。
奥さんが表彰された
会社にて、奥さんが社長賞に類した賞をもらった。こんな嬉しいことが他にあるか。
奥さんは、会社でもキーとなる事業に携わっていて、それを現場で統括する立場にいる。きっと、小さなものから大きなものまで、日々いろんな問題に囲まれているんだろうと思うけれど、そういえば、「会社で仕事をしていると(自分の)子どものこととか忘れてる」なんて言葉が奥さんの口から出たことがある。多分それは真実で、だとすれば私はその言葉によって、家族皆が健全な環境と状態にいるんことを認識して、安心する。そして奥さんはそう言いつつも、会社に泊まった方が楽に決まっている状況でも、午前様でも始発列車ででも家に帰ってきて、娘に朝ご飯を作ることだけはそれこそ一日も欠かさずに毎日やってくれる。娘に手作りの料理を一日一回食べさせることを母としての最低限のラインに引いたのかもしれないし、それが自分にも娘にも睡眠より大事なことだったんじゃないかと思う。私は誇りに思う。
今日、小さなお祝いに花屋さんでブーケを買った。奥さんが娘を産んでくれたときに花束を買ったのと同じ花屋さんで。そして今日のブーケの色合いは、娘が選んでくれたのだ。
休日出勤から戻った奥さんに、娘からブーケを手渡ししてもらった。娘は照れ照れしながらも、練習どおりおめでとうと言ってくれた。よくできました。
おめでとう。
潰瘍性大腸炎
潰瘍性大腸炎をGoogleさんに訊ねると、安倍さん(元だか次期だかの総理大臣の)の名前が出てくるときたもんだ。何だかなあ。参ったなあ。
夏に入ってからくらいからだったと思うのだけれど、大便が鹿のそれのように細切れになって出てくるようになった。それは今思えば前兆だったのかもしれないと思うのだけれど、そのときは面白い面白いと笑っていたりして。そうして確か少し涼しくなった10月に入ってから、今度は慢性的な下痢に悩まされるようになった。もともと私は腸が弱くって、刺激の強いものとか油の強いものとか食べるとすぐに便が柔らかくなるような体質だったけれど、逆にそれはたいてい一度っきりで、慢性的にというのは初めて遭遇する事態だ。ただ、トイレを抱えてないといけないといったほどでもなく、デスクワークの身にとって、1日2回とか程度の下痢はあまり問題ではなかったのだけれど。
下痢が続いて1ヶ月と少し経った頃にようやく消化器系の病院に相談しに行ったところ、大腸内視鏡検査をすることになった。その後、予約で1ヶ月待たされて、ようやく検査を受けてきた。結果、潰瘍性大腸炎の診断を受けた。
内視鏡で撮った画像を見せてもらったのだけれど、確かに健康な部位と較べると大腸炎にかかっている部位は傷んでる。よく原因がわかっていない病気みたいで、食事が原因ですかとお医者さんに訊いてみても少し奥歯に物が挟まったような言い方をされて、そうではないんだと。傷んだ部分の画像を見ていると口内炎のことを思い出し、そういえば私は口内炎がびっくりするくらいできやすく、そして腸も弱いので、では体質的なものもあるのかしらなどと考えてみたりして。
対応として、処方された薬を飲み、3ヶ月後にまた内視鏡検査をすることになった。良化していればいいのだけれど。
何だかなあ。参ったなあ。