さべひろのこと

お腹が減りました。

地震の日のこと

3/11(Fri)の昼過ぎから起こった、東北地方太平洋沖地震の日の日記。

東京都中央区日本橋にあるオフィスの15階でいつもどおり働いていると、縦揺れ横揺れと長い時間の大きな揺れが来た。体感的には阪神淡路大震災のとき(そのとき私は大阪にいた)よりも少し小さいくらいかなと思ったが、高層ビルの中にいる分、揺れ幅がすごく大きい。ローラー付きの椅子に座っていたのだが何もしないでいると止まらない止まらない。椅子を離れても立つのがやっと。窓の近くの席だったので窓際まで行って外を眺めると、近くを走る首都高速でも車は停止し、何より他のビルの目に見える揺れがすごい。隣り合ったビルが互い違いに揺れている姿は何かの冗談かと思ったし、揺れが終われば何事もなかったかのように立つ姿も冗談かと思った。終わった後に全体を見回しても幾千と見える建物の風景に変わったことはなく、素直に感心した。

さすがに騒然とはしているが冷静に見ると自フロアには被害らしい被害は見当たらない。上の階でスプリンクラーが誤作動した影響でエレベータや階段から水が相当量流れてきていたが、それくらい。震源地が東京だと被害は最大でもこの前後で済むということでよかったのだが、確認するとどうやら東北らしい。かつ、この時点では東北の情報が断片的にしか入ってこない。阪神淡路大震災のときも、被災中心地の情報は遅れてやってきたので同じ状況が想像されるが、どうしようもない。祈るばかり。

さて家族の安否。妻は同じオフィスの一つ下の階で働いているので私と同じ状況、無事なのは間違いない。保育園で過ごす娘が気になったが、保育園に設置されているWebカメラにアクセスしてみると、園児たちは既に頭巾を被って保母さんに寄り添い自分たち自身より安全に処置されているのが見てわかる。さすが、感謝。こちらも安心。

後は、余震に揺られながら、twitterのTLや各Webサイトにアクセスして状況を眺めつつ、通常業務を実施。もとい、やはり何だかぐったりしていたし、やはり状況が気になって仕方なかったが、今やるべきは普通に過ごすことと意地になって業務は捨てず、でもあまり生産性は上がらないといったところ。

夕方になり、そろそろ保育園のお迎えが気になるが、電車は動かず身動きは取れない。そうこうしているうちに自宅の最寄り駅を持つJRが終日運転見送りという知らせが入り、依然地下鉄も動く気配がない。保育園には何でもあるしプロがいる、我々は目処がつくまで移動しない方がいいのではないか。かといって朝まで子どもから離れるのか。目処が立たずとも足は向けるべきではないのか。だが二人一緒に動いて二人とも動けなくなるのはだめだ。などを妻と相談し、最終的にはこの日のお迎え当番だった妻がそのままタクシーで帰路に着き、業務で手も離せなかった私は指揮系統としてインターネット資源が潤沢な会社に留まることにした。

一旦動くと決めたものの、初動が遅い(風に捉えてしまった)妻に対し少しイライラしてしまい、少し口論する。定めたシナリオが狂うと思うと対応に柔軟性持たすより前にそれどおりに動かない相手をせめてしまう。相手の状況に対する想像力を使わず汲まない私が悪い。またやってしまった。(ごめんなさい)

さて、動き始めればそのとき一番確実な連絡手段だったtwitterのDM機能で適宜連絡を互いに取りながら進行させる。タクシーはすぐつかまるがやはり渋滞で動かない。おまけに運転手さん(おじいちゃんだったようだ)もぐったりされていたようで目的地がうまく伝わらずに何故か逆走する体たらく。そうこうしている内に少しずつ運転再開し始めた東京メトロに乗り換えるも、再開と停止を繰り返しうまく進めない。結局、普段1時間かからないところを4時間以上の時間をかけて、最終的に埼玉県川口市の保育園に着いたのは深夜の0時を回っていた。お疲れさま。やり取りしたDMは40本くらい。5,6分に1本ということで、twitterさまさま。ありがたし。

ずっと保育園のWebカメラを見ていたが、やはり何かにつけ保育園の対応は適切に見えた。21時過ぎには皆布団の中で寝かしつけ、その後も夜なべして面倒見てもらう。ひたすらに感謝。妻が迎えに行ったタイミングでもまだまだ子どもは残っていて、夜なべは続く。更に感謝することしきり。

一番心配していた自宅も、テレビくらいは壊れていることを覚悟していたが、拍子抜けするくらいまったく何事もなかったようで幸い。妻と子どもが無事にベッドで寝られたのを確認できた同じタイミングで、私の業務も一段落した(夜間バッチが始まるまでに処理したいものがあったのだが、障害重なり地震も重なり(人的資源を追加できず)非常に手間取ったのだ)。双方が落ち着くといよいよ私もぐったりしてしまい、そのまま会社の椅子で深く落ちた。途中、二度ほどあった大きな余震で少し目は覚めたけれど。

翌日はいつもより遅くに朝起きて、私はついでの殿にもなっていたので全メンバの帰る目処がついた後、最後にフロアを退出した。帰路は、交通機関は動いたり止まったりで引き続き不自由だったが、迂回と徒歩にて2時間かからず昼過ぎに帰宅。ようやく家族と合流できた。

f:id:hsabetto:20110313130801j:image:rightf:id:hsabetto:20110313130824j:image:right少し自宅から離れた二番目の最寄り駅から徒歩で帰る途中、外壁(のみ)が崩れたマンションがあったり、それなりに爪痕は伺い知れる。自宅マンションも築4,5年で新しいが、床のタイルが歪んだりはがれたり、ひびが入ったり程度はしている(画像)。さすがに表層のみは影響あったかといったところ。駅に隣接している自宅マンションと同時期に建てられた商業施設も、立ち入り禁止部分があったりして若干物々しいが、後日管理組合の理事長さん(行きつけの喫茶店のマスター)に話を訊いたところだと、躯体に問題はなく接合部のみ被せているものが外れてしまっているとのこと。そういえば会社の内壁にも幾つかヒビが入っていたが、同じような状況だろう。化粧が少しはがれている程度ならその修復は後にして、もっと深刻なところに資源をまわせればいいのだけれど。

3日経った今日、航空写真だか衛星写真だかで被害が大きかった地域の地震前後の写真を見た後に、家族で夕食を食べた。娘はいつもどおり幸せそうに食べているし確かにご飯は美味しいけれど、その見た写真のことが頭を離れなくて、もとい写真の向こうにある避難生活で今もご不自由されているだろう被災者を連想してしまって、ご飯がのどを通らなかった。今問題なく生活している我々は、できることをする他は普段どおりの生活をして経済を止めないのだと強く決心していても、そこに入ってしまうとやはり抜けるのには時間がかかる。気を取り直して明日から、決心したとおりに邁進すべし。

東北の東海岸一帯は、元々私の行きたい旅リストの上位に入っていたところだ。今はそれぞれがやれることをやって、近い内に美味しい魚を食べと酒を呑みに行く。そして海岸を走る鉄道に興奮するのだ。思い込みではなく、そう思うと心底楽しみだ。ではまたやってくる明日を精一杯。

そういえば、地震の直前に書かれたであろう子どもの保育園の連絡帳に以下の記述があった。やっぱりそここに予兆はあったんだ、と。

今日は本町4丁目の鯉を見に行きました。いつもは活発に動いている魚なのに、なぜか今日は全魚がまったく動かない状態で何をしてもじっとしていました。公園では追いかけっこをして遊びました。明日の遠足よろしくお願いします。