さべひろのこと

お腹が減りました。

社内SNSの存続有無とそう思う理由

今日、会社のある打ち合わせで、社内SNSの存続有無とそう思う理由について回答を求められた。反射的に「カジュアルな情報交換/共有の場は社の基本的な構成要素の一つであるから、必要」と答えたのだけれど、まったく回答になっていない(理由を訊かれているのにその根拠を答えていない)と反省したので、もう少しだけ書き捨てておく。

私が言った、社内SNSの「社の基本的な構成要素としてのカジュアルな情報交換/共有の場」というのはそもそもどういうものだろうと考えたときに、「場」という意味で言えば、会社における社内SNSの存在は、例えば学校における運動場の存在と同じような位置づけになるのではないかと思った。

学校に運動場を設置するのは法令で定められているが、その存在理由を文字として書きだすと、それはきっと「健康、安全で幸福な生活のために、運動を通じて体力を養い、心身の調和的発達を図ること」というものになるだろうと思う。同じように、社内SNSの存在理由を文字として書きだすと「社員同士のコミュニケーションの円滑化、情報の共有と交換、ナレッジの蓄積による生産性向上」というところになると思う。それぞれ、基底にある意義は、こうやって気持ちを乗せない文字として書くと、何だかまどろっこしくてピンとこない。ぼやけてしまうのは、それぞれの「場」自体が、もう母体を構成する要素だからなんだと思う。だから、「場」ができてしばらく経った後にそのものの原理的な存在理由を問われると、それに対して響く回答をすることは実は結構難しいのだと思う。

運動場があるということはここは学校ですよね、でもなぜ学校に運動場が必要なんですか、子どもが身体を動かす場所がいるからというのは、何となく運動場が必要な理由になっていないように思うのですが、みたいな。

前述の、気持ちを乗せない存在理由すら脅かすような何かが起こっているならば、その原理的な存在理由に立ち戻って、「場」の存続有無を議論する必要があるのかもしれないけれど、そうでない段階において存続有無を問うことは、ということで、あまり意味のあることではないのではないかと思う。「場」が既にできている場合にフォーカスするべきは、如何にその「場」を整備し、気持ちを乗せるかというもう一段上のレイヤのことであって。