さべひろのこと

お腹が減りました。

正しいと主張することの難しさ

今朝、娘と保育園に向かっていた道中、信号を待っている間に、急にふと自分が幼稚園児のころのあるシーンを思い出した。

幼稚園児のころのこと

思い出したのは、幼稚園の授業中に先生から園児に題が出されたシーンだった。その題は「信号のある横断歩道を渡っていてちょうど真ん中に来たとき、信号が点滅を始まればどうするか」というものだった。答えには「1.渡りきる/2.止まる/3.引き返す」という三択が提示された。そのときの私は、直感的に「1.」が正解だと確信していたのだが、確信していた答えを口に出せなかったことを覚えている。

記憶が確かなら、口に出せなかった理由は、同じ答えを選んだ人数が少数で不利に感じたという状況に加え、自分との反対意見の理由が声高に話されていたのに割り込めなかった、言い換えれば自身が正解と思ったロジック(「1.渡りきる」が正しいことの合理的な説明)を他者向けに再構築できなかったためだった、様に記憶している。

場が、自分には誤っていると思われる多数意見に染まって行く様を見ながら、無力さのような感情に支配されたことを、何故だか急に思い出した。

主張できない理由

正しいと思ったことを言い出せない表面的なものに、それが少数意見に属するとか、言ったときの相手のダメージの大きさを慮るとか、口に出すのが恥ずかしいとか、歳を重ねて繊細になったり図太くなったりして変わってくる、空気を読むことに含まれるようなことがあるかもしれない。でもそれは、口に出すまでのプロセスの最終のチェックとして存在する程度のもので、本質的な理由は別にある。

少し話変わり、

直感と呼ばれる感覚の大部分は、感覚的なものではないんだと思う。膨大な直接的な経験と、個々の論理的思考の積み重ねが脊髄となり、その脊髄から自動的に導かれた様に見える答えが直感と呼ばれているものなのだと思う。

例えば、「この人は嘘をついている」という直感(洞察)は、相対した人の多くの細かな表情や動きと、それまでのその人との経験をパラメータとして、脊髄が導くものだけれど、導かれた自分の中でかなり確証の高いと思ったそれを、他人向けに説明することは難しい。

話戻して、

脊髄を太く(導かれる答えを正確に)するには、個々の論理的思考をより深くし、且つ、それらの数を多くして脊髄に定着させていく過程が必要になる。太くなればなるほど導かれる答えは正確になるけれど、反面、その答えが太い脊髄をどうやって通ったか、その経路を追って論理的に再構築することは難しくなる。

正しいと主張することが難しいケースの一つはこういうことなんだと思う。

アウトプットすること

この後に続くのは、アウトプットすることの重要性というよくあるテーマになると思うのだけれど、だから私は、アウトプットする意義の一番下方のレイヤにあるのは、脊髄の経路確認なんだと思う。アウトプットすることで新たな気付きを得るということが言われているとすれば、それは決して新しいというわけではなくて、元々自分が持つ経路を確認することで新しいと思った気付きが新しくないことを証明する行為なんだと思う。

冒頭の幼稚園時代の題

とここまで書いた所で、ふと考えると、横断歩道のお題は交通ルールの定着のために与えられたのかと今の今まで思っていたけれど、もしかしたら議論(ディベート)の練習としてのお題だったかもしれない。なんて。だとすると、幼稚園の頃の私はまったくお題に乗れてなかったのか。なんて。