学業お参り
受験生の親らしく、神社をいくつか巡ってお参りしてお守りを買って帰りました。大学受験のとき、年末年始の北野天満宮にお参りに行ったことに思いを馳せながら。
北野天満宮
私にとって学業お参りする先は北野さんしかないので、仕事で京都に来た機会を使って始業前の朝一でお参りしてきました。朝一の静謐な神社はとてもいいものでした。
お参りとしてはもうこれで十分なのですが、少し調べると東京にも三天神というものがあるらしく、せっかくなので週末に一つずつお参りしてきました。
谷保天満宮
"やぼ" と読む、国立にある全く知らなかった神社です。国立駅から歩いて行ったのですが道中に一橋大学もありました。こんなところにあったのか。(通っていた大学とおそらく学部的な面で相応に連携があって存在自体は記憶にもそれなりに大きくあり;と言ってもロクにゼミにも顔を出していなかった私自身は全く関与しなかったのですが)
どこかの学習塾なのでしょう、スーツ姿の若めの先生に引率された一クラス分くらいの高校三年生の生徒たちが、絵馬にお願いを書いている人溜まりもありました。
鶏の放し飼いが印象的だった素朴な神社。

最後の一つの湯島さんは、
軽く寄れる場所なので、家族みんなでお参りすることにして、一人の神社巡りはこれでおしまい。
娘のそれなりの努力が成果に結びつきますように。
広島と大阪の間に
年末は奥さんの中高の部活の忘年会に出るために広島に戻り、年始は私の兄弟の新年会に出るために大阪に戻るというのが、年末年始の行動軸なのだ。
いろんな職業に就いていてお休みの日を合わせるのも一苦労な奥さんの同級生は、12月30日を例年その日と決めて、家族がいれば伴って皆で集まるのだ。
私の兄弟の新年会の方は、兄弟全員が社会に出ることになって何年か経った後に、弟が発起して年始に集まることになったのだった。こちらも周辺の家族を適当に伴いつつ、調理師の弟が河豚をさばくのを恒例として。
さて、せっかくもらった長期の休みを帰省で埋めてしまうなんて、そう言えば何て愚かしいことなんだと思いつつそういうことになってしまっているので、でも広島に行って大阪に行ってそのまま帰るだけだと何だかもったいないので、その広島と大阪の間にどこか旅行に行くことにしているのだ。
ここ5,6年でいうと、
- 【2013-2014年】は、広島から船で愛媛県の松山に渡り、道後温泉に逗留しつつ松山を観光した。連泊した宿のご飯が最高で、鯛づくしのご飯が美味しかったし瀬戸内の魚づくしのご飯も美味しかった。食事の回数と同じくらい温泉にも入りとても緩んだ。
- 【2011-2012年】は、福岡に行って福岡の美味しいものをたくさん食べて、お櫛田さんにお参りしたり。
- 【2010-2011年】は、和歌山の白浜に行ってクエ鍋食べて年を越しつつ、アドベンチャーワールドで娘にパンダを見せたりしたり。
- 【2008-2009年】は、岡山の倉敷に行って、倉敷チボリ公園の最後を看取りつつ、倉敷美観地区をきちんと観てまわったり。
という広島と大阪の間のお楽しみ。広島と大阪の間なのでどうしても行くところは限られてしまうのだけれど。
来年はどこに行こうかしら。
どこか広島と大阪の間のいいところはありませんか。
頼もしいと思ったこととやっぱり子供だったことと
娘がまだ4歳の少し前のある夜のこと。
いつものように娘を保育園にお迎えに行き、娘と家に戻ったのだけれど、その晩の私はどうしたことか疲労困憊で。いつもなら1時間ほど何かしら娘と遊んだ(娘を遊ばせた)後、添い寝するか娘のベッドのそばで仕事するかして、娘が寝入るまで付き合うのだけれど、この日は荷物を降ろして座り込んだらもう目を開けてられない状態で。
娘に「ゴメン、今日は何かアカン。シンドイ。寝させてもろても構へんか」と訊くと、「うん、いいよ」と言ってくれた。その後の私はもうほとんど着の身着のままで自分のベッドに行って横になって、すぐにまどろみ始めた。娘はその様子を見に来て私の姿を認めると、そのまま自分の場所に戻って行った。私はその戻る娘の背中をうっすら見てそのまま本当に寝てしまった。
何時間か寝て、娘のベッドに様子を見に行くと、ちゃんと寝支度をして行儀よく寝入っている娘の姿がそこにあって、もうすっかり大人だなあと思ったことだった。そしてうっすら記憶にある、戻る娘の背中がとてもたくましいなと思ったことだった。
その後しばらくして娘は5歳になり、何と運悪くアレルギー性紫斑病という原因不明の一過性の病気にかかり、1ヶ月ほど入院する羽目になった。
入院した病院は基本的に付き添いを認めていないものの子供は付き添いをしてもよいということになっていた。ただし我々は始めから長期の入院になることがわかっていたので付き添いを選ばず、朝と夜のお見舞い時間以外、娘は親と離れて過ごすことになった。
入院することになったこのときの娘は、少し前のたくましい背中を持った娘とは違い、面会時間の終わりがきて帰る段になると、泣くわ喚くわの大騒ぎだった。
もちろん状況は全く異なるんだけれど、すっかり頼もしくなったと思った娘は、やっぱりまだまだ子供なんだと思ったことだった。
そんな娘は年末にかからずに無事に退院でき、保育園でのクリスマス会も楽しめたし、今も年末年始の帰省兼旅行を精一杯楽しんでる。
さあ、保育園も来年の4月には最後の学年になり、後はもう、すぐに小学生だ。
今年の夏休みは、
外せない海に加え、温泉を少々と、遊園地を最後に据えて、しっかりと遊びました。
伊東オレンジビーチ
南方で海沿いの温かいところには、いつもちゃんと立派な椰子の木があって、それが温暖な気候をわかりやすく特徴を表していて、ああいつもと違う場所に来たと思わせてくれて、僕はそれをとても好ましいといつも思うのです。
伊豆は下田まで行けばより美しい海が楽しめるのはわかっていたものの、海遊びの後の予定のことを考えるとあまり南に下りすぎるのは余裕なく、伊東どまりにしました。
選んだ伊東オレンジビーチは伊東駅から歩いていけるところにあってアクセスよく、伊東駅自体も東京駅から一本で行けるので使い勝手が大変よいのです。(まだ今のところ、娘の昼寝の確保が行程における重要なポイントです)
この日は、それを知らずに行ったのですが、海岸で花火大会があったようで、防波堤のテトラポットのところで花火の準備が行われていたり、試し打ちがあったり、大きくて立派な船がきっと花火見物のために直ぐの沖合に停泊していたりと、少しいつもと違う雰囲気を感じました。
海は潜ると魚が泳いでいるのが見える程度には快適な水質で、燦々と照りつける太陽の下、大変気持ちよく泳ぐことができました。娘ももうバタ足で進んだりと海の大きさに及び腰だった2,3年前が随分と昔のことのようで、成長を感じて大変嬉しく思いました。
伊豆長岡温泉
夕方までひとしきり泳いだ後、三島から伊豆箱根鉄道駿豆線を乗り継いで伊豆長岡駅で降り、伊豆長岡温泉の宿に一晩逗留しました。
なかなかいい宿にあたったようで、お風呂も気持ちよく、地で旬のものがふんだんに使われていたご飯も大変美味しくて、嬉しく大変満足しました。

富士急ハイランド
翌日は昼までには三島に戻り、三島からバスを乗り継いで富士急ハイランドに向かいました。この後は富士急ハイランドのそばで一泊しての、二日間での遊園地遊びの行程としていたのです。
富士急ハイランドには実は来るのは初めてで。本当はもっと前に絶叫マシンを楽しむために来たかったのだけれど、来そびれたまま娘ができて旅の候補から外れてしまって。でももうすぐ5歳の娘は身長が110cmを超えて少し乗れるものも増えてきただろうし、何より「リサとガスパールタウン」というものがオープンしたらしいことを聞きつけて子供が喜ぶだろうとぜひにと来ることにしたのです。
おかげで娘は「リサとガスパールタウン」も楽しんでいたようだし、「トーマスタウン」でも同じ遊具に繰り返し乗るくらい楽しんでいたし、何よりでした。大人は互いの合間を縫って、一つ二つ目玉の絶叫マシンに乗れた程度だったけれどそこはその程度でいいやと最初から思っていたのでそれだけで満足でした。
ところでその一つ二つ乗ったものはうわさ通りよくできていて、もうこれでもかと落としたり振りまわしたりで、ちょっとがちがちに身体を固定しすぎじゃないかとも思ったものの、ものすごく楽しかった。参りました参りました。

と、そんな夏休みでした。
実は、夏休みをこれではまだ1日しか行使していないので、9月の後半でもう少し休みたいなと考えていたりします。
奥さんが表彰された
会社にて、奥さんが社長賞に類した賞をもらった。こんな嬉しいことが他にあるか。
奥さんは、会社でもキーとなる事業に携わっていて、それを現場で統括する立場にいる。きっと、小さなものから大きなものまで、日々いろんな問題に囲まれているんだろうと思うけれど、そういえば、「会社で仕事をしていると(自分の)子どものこととか忘れてる」なんて言葉が奥さんの口から出たことがある。多分それは真実で、だとすれば私はその言葉によって、家族皆が健全な環境と状態にいるんことを認識して、安心する。そして奥さんはそう言いつつも、会社に泊まった方が楽に決まっている状況でも、午前様でも始発列車ででも家に帰ってきて、娘に朝ご飯を作ることだけはそれこそ一日も欠かさずに毎日やってくれる。娘に手作りの料理を一日一回食べさせることを母としての最低限のラインに引いたのかもしれないし、それが自分にも娘にも睡眠より大事なことだったんじゃないかと思う。私は誇りに思う。
今日、小さなお祝いに花屋さんでブーケを買った。奥さんが娘を産んでくれたときに花束を買ったのと同じ花屋さんで。そして今日のブーケの色合いは、娘が選んでくれたのだ。
休日出勤から戻った奥さんに、娘からブーケを手渡ししてもらった。娘は照れ照れしながらも、練習どおりおめでとうと言ってくれた。よくできました。
おめでとう。
弟の披露宴での主賓の挨拶
弟へ。改めて。
皆さん、こんにちは。改めまして、新郎の兄です。
私からは大きく2つ、お話させていただこうと思います。
1つめは、新婦のご家族の皆様へのご挨拶。2つめは、新郎新婦に向けてのお話という順で、お話させていただきます。1.ご挨拶
では1つめから。そもそもこの挨拶は、主賓の挨拶という題目で時間をいただいておりますが、私は主賓と言うよりもむしろ新郎側の親族代表ですので、その立場からお話させていただきたいと思います。
本題の前置きとして、私と新郎である弟を比べてみてというところから話を始めてみます。
私と弟は、似た遺伝子を持った兄弟なので、基本的な性能は同じです(同じです?)。ただ、長男の私が教育にかけるリソースを食い潰したというようなかけた教育コストの違いとか、母親の子育ての習熟度とか、もう死別した面倒だった父親との距離とか、バックボーンには色々な違いがあって、人格は当然違います。
で、どう人格が違うかということを考えたときに、例えば私は、若干性格が悪いです。ちょっと嫌なやつです。それに、どちらかというと人があまり好きではないです。(えっと、皆さん、ここは苦笑いくらいはするところです) 反して弟はというと、人懐っこくて人当たりも良くてまあいいやつです。別の言葉で言うと、私は基本的に自分が中心で、且つ、人と相対するときも斜に構えます。反して弟はきちんと正面で人と相対します。そんな違いがあると思っています。
この前置きを踏まえてようやくご挨拶なのですが、弟は思慮や経験浅く、ご迷惑やご不満に思わせてしまう点が多々あるかもしれません。ただ、今申し上げましたとおり、弟は端的に言うと屈託なくいいやつです。それを心のどこかに留めていただいて、暖かく接していただければ嬉しいです。
今後ともどうぞよろしくお願いします。(深く礼)
2.夫婦以外の軸
さて、2つめ。次は、新郎新婦二人に向けてお話させていただきます。
私が密かに大事している言葉があって、それは私の奥さんの言葉なのですが、それを二人にも紹介したいと思います。
最初にその言葉を言うとそれは、「離れている時間を怖がらない家族でいたい。離れているときはお互い強くありたい。」という言葉です。まず、この言葉の背景を説明します。私の娘は保育園に通っていますが、保育園が休みで、でも会社は休みでない日がありました。だから、会社を休むか、その日開いてる別の保育園を探してそこに一時的に預けるかを選択しなければなりませんでした。これからも同様のケースがあることや、他にも色んなことを考えた結果、別の保育園に預けることにしたのですが、そうやって奥さんとどうしようかとやり取りをしていたときに、奥さんから出たのがこの言葉です。
背景は以上ですが、今、この言葉を元に二人に何を伝えたいかというと、ちょうど今、新しく生まれた家族という軸にスポットライトが当たっています。でもそれとは別に、仕事をしているとか、例えば趣味を楽しむとか、基本的に二人で過ごすことのない家族以外の軸も二人にはあるはずです。そんな家族以外の軸もこれまで以上にそれぞれで強くして、且つ、それぞれの軸をきちんと尊重しましょう、ということが伝えたかったことです。そうやってそれ以外の軸を強くすることと互いの軸を尊重するという間接的なメンテナンスが、最も効果的な家族という軸に対するメンテナンスなんじゃないかと思っています。
以上がお伝えしたかったことです。「離れている時間を怖がらない家族でいたい。離れているときはお互い強くありたい。」改めてこの言葉を、二人にも送ります。
以上。長々と失礼しました。改めておめでとう。
海辺にて
娘の視点、妻の視点、私の視点
- 娘 「見て見て、ヤドカリさんがたくさんいる」
→ 言われないとわからない/よほど注意して見てみないとわからない微細なヤドカリが最初に眼につくよう - 妻 「すごい神秘的な感じだね」
→ 我々以外誰もいない海辺の空気が想像力を喚起し、誰もいないはずの海辺に何かを見ている(妄想している)よう - 私 「ええっと今は南東向いてることになるから、中国にちょうど背を向けてることになるのか」
→ 地勢や地理上の現在位置と状況を確認しているよう
噛み合わぬまま
もとい噛み合う必要もなく夏も終わる。ずっと一緒にいて時間と空間を共有していても立っているところは全然違う。そんなことに改めて気がついた夏の海辺。
[[今週のお題]]「2010夏のふりかえり」
娘の保育園に提出した「夏の思い出」
今年は、はじめて海水浴に出かけました。1回目は、鵜原でした。はじめての海はつめたくて、少し怖くなりました。お父さんや、お母さんとくっついてないとえんえんしちゃいました。2回目は、舘山でした。もう、えんえんすることはありませんでした。海は楽しいなあと思いました。次は、沖縄です。4日間の沖縄旅行で、2回、海水浴しました。沖縄の海岸は岩がたくさんあると知って、お父さんが、マリンシューズを買ってくれました。3回目の新原ビーチではマリンシューズをはきました。最初はイヤだった砂浜歩きがとっても楽しくなりました。4回目のエメラルドビーチでは、とうとう1人でプーさんの浮き輪でバチャバチャしました。楽しくて、楽しくて、帰りたくありませんでした。日が暮れるまで泳いで、浜辺もたくさん歩いて、たくさんケーキを砂で作りました。海はとっても楽しいです。もっともっと行きたいです。夏が終わるのが淋しいです。

お父さん
お父さんが死んだ。'10.03.27、82歳と32日。特に兆候なく急な心停止。介護施設にいる最中だった。
私は、大学在学中後半は実家を出て神戸で一人暮らしを始め、卒業後も東京に就職したため、そもそもお父さんとは離れて暮らすことになった。また、生活的にも自立した私自身が、面倒なお父さんと親密に関わろうとしなかったこともあり、以降の日常的な思い出はあまり多くない。
ここ最近の数少ない思い出と言えば、正月に奥さんと帰省して、家族で鍋をしていたときに、広島生まれの奥さんのことを気に入った風で、べっぴんさんや、とか、いつものうんちくで広島のことを酒に酔いながら話したこと。アルツハイマーの進行で、もう色んなことを思い留めることができなくなったお父さんに、介護施設にて娘を抱いてもらったこと。の二つくらいだ。今となっては大事なその思い出が、死ぬ直前、お父さんの中でどれほど留まっていてくれたか、私にはわからないけれど。
昭和一桁生まれで鹿児島生まれのお父さんは、同級生の他のお父さんよりも年上のお父さんは、厳しくて頑固で面倒だった。お酒を呑んで呑まれてうんちくを語り出すお父さんは、周りのお父さんよりもややこしいお父さんに見えた。
私が生活的に自立を始め、お父さんと親密に関わろうとしなかったのは、ややこしいけれど大きかったお父さんが、老いでどんどん小さく思えるようになってきたことも大きく作用している、と思う。大人になった、一人前になったと思い始めた私が、お父さんのことを張り合いがなくなった、と思ってしまったからだ、と思う。
それでも、知らせを聞いて新幹線の終電で実家そばの病院に向かったものの、もうすでに息がないお父さんと久しぶりに対面したとき。翌日には葬儀施設の豪華なお布団にくるまって、棺に入れられるのを待つお父さんと対面したとき。桐の棺にお父さんを入れたとき。今まさに焼かれんと火葬場の扉が閉められたとき。火葬が終わって骨だけになったお父さんと対面したとき。張り合いがないと思っていたお父さんがいなくなることの寂しさと、他の色んな整理できない想いと、がこみ上げてくる。大きかったお父さんはもういなくなったけれど、張り合いがなくなったと思っていたお父さんだけれど、やっぱりお父さんは大きかった。
20歳も年上のややこしいお父さんと40年近くも付き合ってきたお母さんは、最後のお別れのとき、お父さんに「ありがとう」と小さな、だけどしっかりした声で言った。抱いてもらったことも覚えていないだろう1歳7カ月の私の娘は、それでも空気の違いを感じた風で「じいちゃん、ねんね」「じいちゃん、ねんね」を繰り返した。
結局、お父さんは幸せ者だ。
お父さん、まだだいぶん先になりますが、今度は二人でゆっくりお酒を呑めますか。それとも、まだややこしい父のままで、ゆっくりお酒を呑んで話すこともできませんか。


